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「あんな事があったね」と笑い合えたら

また会えるよね って声にならない声

日曜の夜、母方のお爺ちゃんが死んだ。89歳だった。
お爺ちゃんは、一年前からお婆ちゃんと一緒に施設「楽しい家」に入っていた。もう、私の顔は覚えていなかった。

小さい頃、よく弟と一緒にゲームで遊んでもらった。花札での坊主巡り、トランプで神経衰弱。ファミコン、プレステでぷよぷよ、将棋もした。
私は将棋が全くできなかったけれど、どんな一手を出してもお爺ちゃんは「栞ちゃんはすごいっ!強いなぁ、お爺ちゃんの負けや。」と言ってくれた。
私が小学2年生の時に1型糖尿病を発症し、入院した時は、弟の面倒をお爺ちゃんが見てくれていたそうな。

日蓮宗のお経を、初めて聞いた。右手でお坊さんは木魚をリズムよく叩き、左手で大きなおりんを鳴らす。器用に2つを別々で叩いて、まるでドラマーのようでちょっと面白くて弟と笑った。

お爺ちゃんが亡くなったという知らせは突然だった。東京に7月から引っ越してきた私は、その日の夜、渋谷のWWWでmei ehara と ゆうらん船のライブを鑑賞している最中だった。
ライブ中にラインが来ているなぁと思って、母からのLINEを呼んで、あー、そっかぁ。と思った。

5月のGW前に、お爺ちゃんは施設で倒れた。
脳の中に水が溜まり、脳幹にダメージが出た。
そこから、お爺ちゃんは寝たきりの植物人間になった。
もう、私の顔なんて覚えてくれて無いとわかっていたけど、「お爺ちゃん」と何度も声をかけた。
母曰く、お爺ちゃんは大の病院嫌いだったようで、怪我をしたり体調が悪くなっても、病院に行かなかったそう。80歳を超えてもタバコが大好きで、ずっと吸っていたけれど肺炎にもならず、お爺ちゃんは人生で殆ど病院に行った事がなかったらしい。
そんなお爺ちゃんは、脳に水が溜まり、意識がなくなってから、1日3万円という高額な医療費がかかるというICUに入れられた。
沢山の管が、お爺ちゃんを生かしていた。

お母さんは、自立が早い人だからか、5月にお爺ちゃんがもう長くは無いと悟っていた。
もうヨボヨボのお爺ちゃんやからな。と、母は特に悲しそうでは無いように見えた。
最後にお爺ちゃんの家に行ったのは、もう10年以上前な気がして、よく覚えていない。
その時も、「お前は誰だ?」というような、他人を見るような目で見られたのを覚えている。
お爺ちゃんは、厳しくも優しい人だった。

ICUに1ヶ月ほど居たようだけど、後期高齢者医療制度のおかげで、最大57000円ほどで済んだそうな。
そこからは病院を転々として、3ヶ月ほど経ち老衰でお爺ちゃんは亡くなった。



母からのLINEで、お爺ちゃんの他界の連絡と、もう一つ知らされたのは、弟の離婚の話だった。
悲しい出来事はどうもこうして重なるのか。
「お互いが好き同士なら、そのまま一緒にいれば良いのにね」と母は言う。
お母さん、現実問題、そんなに簡単にはいかないんよ。私だって、今の人と離れたい訳ではないけれど、結婚が叶わない、子供が産めない状況はやっぱり苦しいなぁと思う。
先述のセリフは、余裕のある女性が発言できる言葉だと思う。

離婚の話をLINEで聞いていたけれど、弟の嫁ちゃんはお爺ちゃんのお葬式に来てくれた。
弟の友人から事情を聞いて、弟に連絡を取ってくれたらしい。
お経を唱えてもらって、京都市斎場に向かう。
黒い霊柩車はゆっくりと走っていく。その後ろを、車で付いていく。

お爺ちゃんには、両親が再婚した時に相手の母親について来た、血は繋がっていないけれども兄妹になった姉妹2人がいた。
同性のきょうだいって本当に仲良しだな。
羨ましい。私も弟とは別に仲が悪い訳ではないけれど、やはり異性なので触れれない話題もある。
お爺ちゃんの昔の話を、叔母さんや、母の弟さんから聞く。焼き場でお爺ちゃんが骨になるのを待ちながら、みんなで昼ごはんを食べた。
今日は琵琶湖の花火大会だった。
人を笑わすのが好きなお爺ちゃん。棺の中で目を瞑って眠るお爺ちゃんは、今にも目をパチっと開けて、「実は死んでませーーん!!!!」とか、そんなことを普段言うような剽軽な人だから、本当に燃えるまで生きてるんじゃないか、とか考えてしまった。
しわっしわの顔だったけれど、お化粧をしてもらったお爺ちゃんの肌は最後プルツヤになってて、もはや別人で誰かわからんくなっていて、家族一同笑った。最後まで笑わせてくれるお爺ちゃんだった。

お爺ちゃんの戒名は、修生院法裕寛徳信士 というらしい。
修(おさむ)という本名から、あとは日蓮宗の漢字がいくつか入っているのと、裕と寛は、「心を広く持ってくれるように」と言う意味でお坊さんが付けてくれた。
生前お爺ちゃんとお坊さんは、関係があったようで
母の同級生でもあるらしい(!)
当時色々、お爺ちゃんから怒られた事があったとかないとかで、穏やかな心を持って天に行って欲しいという気持ちが込められているそうな。
おじい…どんだけ厳しかったんや?笑

久しぶりに家族で過ごすと、心が穏やかになる。
東京は基本的に1人で過ごしているので、私はよく自分を見失う。
母を、親を悲しませない為には、何が1番大切なのか。私の希望は押し殺して生きていくのが良いんだろうか。正解をずっとずっと探し続けているが、見当たらない。きっと、この先もこのままでは見当たらない、というか正解なんてないのだ。初めから。
という倫理染みた話をするのにももう飽きた。

天に行ったお爺ちゃんにはもう会えないんだけど、離婚した弟の嫁ちゃんにももう会えないのかなぁ、と考えると
私は日曜日の夜、急に涙が止まらなくなり
扇風機の前で涙を乾かすように泣いた。
2人の問題であり、私が関与する部分でないのは承知している。でも、一度一緒の家族になった身として、やはり悲しいものがある。
家族が減るのは、やっぱり、寂しい
でも、私は弟の嫁ちゃんの幸せを、弟の幸せよりも先に願っている。
弟の我儘が原因で、戸籍にバツを付けることになってしまった事については、姉として、箭野家として、申し訳なく思うから。

母は言う、子供なんて簡単に産めると。
母は、私を陣痛からおよそ3時間で産んだ。弟も同様に。本当に母は強運の持ち主だと思っている。だからそんなに先急がず、悩む必要なんてないと行ってくれる。果たしてそうなのか?いやそんなことはない…

私の幸せは、私が見つけなくてはならない。
どうかお爺ちゃん、導いてとは言わないから天から私を見守ってください。